自律と分断の関係性。
テレワーク研修の時期は、なぜか体調が悪くなる。
3日間の研修が4回続きはするが、通常の仕事量と比べても体力的には楽な方ではないかと思う。
それも5年目である。
TVで動物園の熊が餌を請うために媚びるポーズをしているのを見て、あぁと思った。
「与えられ慣れている」状態というのは、見ていてここまで辛いものなんだな、と。
テレワークの養成研修も同じようなものではないかと思った。
目の前にいる何十人という大人が、考えることがしんどい、1人になるのがしんどい、未来が見えなくてしんどい、、、、と感じている。「与えてほしい」と思っているのがものすごく伝わってくる。
「失敗しない方法を」「そこまでしんどくない方法を」「何をやればいいのか教えて欲しい」…
そういう気持ちが部屋中に充満する。
その人たちに能力がないかといえば、むしろその逆である。
個々にいろんなことができ、様々なことを体験している。
だけど、当人が自分に気づかず、納得ができない。
自分で考えなければならない、というたったひとつの事実に絶望する。
そうして多くの人は安易に「他人に用意された自分でも働ける枠組み」を探す方選んでしまう。
私はこの現象がつらい。
目の前に原石がたくさんあるのにもかかわらず、原石が自ら、普通の(と思い込んでいる)石になることを求めていく。
そして、それに負けようとしている私もいる。
本来の力を活かし合う空気をまとうチームを作りたいと5年、奔走してきた。
しかし最近やっていたことは、組織に枠組みをつくること。
「枠組みを作ってやらねば動かない」とも思い始めていた。
それは導かなければ人は動かないという愚かな考え方であることがわかっている。
それでも収益を得るという効率のために、「仕方がない」と思い始めていた。
枠組みを作ることは依存の始まりだと、終わりの始まりだとわかっているのにもかかわらず、
いかに自律させるかという大きな課題が、枠組みをつくる効率に負けそうになっていた。
最近、龍神で紙漉きやアートの活動を行っている奥野さん夫婦の話を聞く機会をいただいた。
40年前に和歌山県の龍神村に移住してきたそう。わたしが生まれた頃だ。
アートの村として認知されている龍神村、その構想の第一人者だ。
奥野さん夫婦の発するひとつひとつのフレーズにものすごく重みがある。
ものすごく魅力的なご夫婦で、話に夢中になった。
全く別の打ち合わせで訪れたので、ブレーキをかけながら話したのが惜しまれる。
それでも奥野さんたちの言葉は私の中に染み入っていった気がする。
いま起きている「分断」。
そしてそれを解消する「グラデーションのつながり」が必要で、
またそれには「個々の自己の表現」が土台となる。
言葉は違えど、奥野さんと私が感じていることは同じだと思う。
当然奥野さんの域にまでは達していないけれど、先駆者の言葉に共鳴したことは確実に力になった。
そして私は再度考え始めた。
本当に枠組みを作ることで良いのか。
確かに枠組みがなければTETAUというチームの輪郭線すら見えなくなる。
あるべき枠組みとはなんなのか。
しんどい作業である。
そこに見えているインスタントな結論に手を伸ばしたくなる。
しかし奥野さんのような人との出会い、チームのメンバーの生き生きとした姿が、
わたしに考えるエネルギーをくれる。なんとかできると思う。
さまざまな枠組みから解放され、自分の得意とする表現方法で表現する個々。
そしてその個々が緩やかに、有機的につながる姿が理想である。
「個」が主体で、そして組織は「土」である。
そう思い直して、もう一度来年の事業計画を練り直そうと決意した。
わたしたちの組織に起こっていることは、社会でも起こっている。
田舎は「自然と共存する暮らし」の中に中途半端に「資本主義の効率」の概念が入り、また情報も溢れている。
どうして良いかわからず、常に不安に苛まれている。
不安そのものが悪いわけではない。
しかし、不安に怯えた人々を救うフリをするビジネスが横行する。
また、自分達は賢く、導くべきと勘違いした人たちが、使えない制度や建物をつくっていく。
そしてそれに加担するというインスタントな枠を選ぶ人も多くなる。
これで良い方向に進むわけがない。
この状況を打開することは、数少ない優秀な人たちを育てることではない。
またそういう人たちを地域に連れてくることでもない。
もしそうしたとしても、分断が起きたままでは、何も変えられず繰り返すだけだ。
全ての人が自分の意志を尊重し、それを表現すること。
表現すれば、必ず繋がっていく。
表現が全員に届きはしなくても、グラデーションでつながっていくのだ。
アート、障害、福祉、教育、経済、、、
特別視されることによる分断。
その原因も解決方法も「個々の自己」にある。
自己を解放し、表現できる人をどのように育て、表現できる場をつくるのか。
またそれを教育者や支援者にどう伝えるのか。
反対側に立つのではなく、効率を求めたくなる一人として分断の間に入り、考え、発信していくべきだと考える。